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原発を巡る言論の変化を残しておきます。
そのうち削除されてしまうので。
特集ワイド:「国策民営」 日本の原子力、戦後史のツケ

危機と対応の混乱が続く福島第1原子力発電所。この国には、この「フクシマ」を含め54基の原子炉がある。そもそも被爆国であり地震国でもある日本に、なぜ、これほど多くの原発が造られたのか? 「原子力の戦後史」をひもといた。【浦松丈二】
 ◇米国の「冷戦」戦略受け導入 政治主導で推進、議論尽くさず

 <ポダムとの関係は十分成熟したものになったので、具体的な協力申し出ができるのではないかと思う>

 早稲田大学の有馬哲夫教授(メディア研究)が05年、米ワシントン郊外の国立第2公文書館から発掘したCIA(米中央情報局)機密文書の一節である。終戦直後から60年代までに蓄積された474ページにわたるその文書には、日本に原子力事業が導入される過程が詳細に描かれていた。

 「ポダム」とは当時、読売新聞社社主で日本テレビ社長だった正力松太郎氏(1885~1969年)の暗号名。原子力委員会の初代委員長を務め、のちに「日本の原子力の父」と呼ばれる人物だ。

 「戦後、CIAは正力氏と協力して日本で原子力の平和利用キャンペーンを進めていきました。彼が政財界の有力者とのコネを持っていただけでなく、新聞やテレビを使って宣伝できたからです」。有馬教授はそう解説する。

 米国から日本への原子力導入の働きかけ。そこには米国の「政策転換があった」と言う。転換点はアイゼンハワー大統領が53年12月の国連総会で行った「原子力の平和利用」演説だった。ソ連との冷戦で優位に立つため、関連技術を他国に供与して自陣営に取り込む戦略だった。

 唯一の被爆国でもある日本が原子力を受け入れることの戦略的意味は、米国にとって大きかった。一方、正力氏にとっては「首相の座を狙うための政治キャンペーンでもあった
ことが機密文書から分かります」(有馬教授)。

 54年に日本初の原子力関連予算を要求したのは当時、改進党に所属していた中曽根康弘元首相らだった。予算が衆院を通過したのは、ビキニ環礁での米核実験で漁船員らが被ばくした「第五福竜丸事件」が明るみに出る約2週間前の3月4日。中曽根氏はギリギリの日程で原発関連予算を通す。中曽根氏は原子力関連法を次々に提案し、科学技術庁(現文部科学省)の初代長官に就任した正力氏とともに、原子力事業を推進した。

 だが、急速に原子力へと傾いていったことは、日本に禍根を残す。「その一つが事故の際の住民への賠償問題です。細部の議論を尽くさずに原発を導入してしまった」。有馬教授はそう指摘する。
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 70年3月14日、日本初の商業用軽水炉として、日本原子力発電の敦賀1号機が大阪万博開幕に合わせて稼働し、万博会場への送電を開始した。正力氏はその前年に他界している。続いて新エネルギーとしての原子力に注目したのは、73年の第1次オイルショックと前後して資源外交を進めた田中角栄元首相だった。

 「田中角栄 封じられた資源戦略」(草思社)の著者でノンフィクション作家の山岡淳一郎氏は「オイルショックをきっかけに石油の限界性が強く意識されるようになりました。そして、高度成長以降、強気の電力需要予測に基づいて全国に原発が造られていった」と説明する。

 田中元首相は自民党幹事長だった69年、東京電力柏崎刈羽原発の建設誘致に動く。首相末期の74年6月には原発の立地支援のための交付金などを定めた電源3法を成立させた。「建設業界、電力業界、官僚、学会が右肩上がりの需要予測を利用して原発を推進した。『列島改造』という国土開発に原発が組み込まれた時代だったのです」

 さらに田中元首相は、米国頼みだったエネルギー政策を転換する。「田中氏は欧州の原子力大国フランスとのパイプを築き、ウラン資源を確保するとともに(プルトニウムを抽出する)再処理技術にも触手を伸ばそうとしました」。そのうえで山岡氏は「先見の明のあった田中氏であれば、そこで原子力だけではなくクリーンエネルギーにも翼を広げておけばよかったのですが……」と語る。70年代、2度のオイルショックを経て日本は原発一辺倒に突き進む。

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 世界では、2度の大事故で原発は停滞期に入る。79年に米スリーマイル島事故、86年にはソ連(現ウクライナ)でチェルノブイリ事故が起き、欧米で脱原発の機運が高まった。だが、日本は97年ごろまで毎年150万キロワットのペースで原発を拡大させ続けた。

 原子力政策の専門家で、97~09年に原子力委員会の専門委員を務めた九州大学副学長の吉岡斉教授(科学史)は「政治は自民党一党で安定し、通産省(現経済産業省)も原発を継続する強い意志を持っていた。2度の大事故の影響は日本では限られていました。世界の情勢に逆行して日本で原発が拡大した背景には、政治と行政の特殊な構造があった」と話す。

 ところが、90年代初めのバブル崩壊以降の電力需要の低迷で、原発建設はスローダウンしていく。さらに90年代半ばに発電事業者の新規参入を認めた電力自由化で、原発は岐路にさしかかる。

 「通産省内でも『補助金漬けの原発は財政的に問題で電力自由化に逆行する』『特に金のかかる核燃料再処理事業をやめるべきだ』との議論が出てきた。05年ごろまでに再び原発継続の方向で固まったが、市場原理に基づけば原発は成り立たない。電力会社も本音ではやりたくないが、国策に従っているだけです」

 吉岡教授には、忘れられないエピソードがある。高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ火災事故(95年)を受け、97年に科学技術庁が設置した高速増殖炉懇談会に委員として招かれた。

 「ところが、議論のさなかに自民党が存続方針を出してしまったのです。懇談会の結論もそれを追認した。われわれの議論は何だったのかと思いました」

 戦後、日本は米国から原発を導入し、オイルショックで公共事業として推進し、バブル崩壊後も政府の手厚い保護下に置いてきた。政府が計画を立て民間の電力会社が運営する「国策民営」(吉岡教授)の二元体制。それが、福島第1原発の事故対応でも混乱を招いているのではないか。

 政治に利用され続けた原子力。それは資源小国ニッポンの宿命だとしても、代償はあまりにも大きかった。




記者の目:「原子力ムラ」の閉鎖的体質=日野行介

東京電力福島第1原発の事故の取材応援で、東電や経済産業省原子力安全・保安院、内閣府原子力安全委員会の記者会見に何度も出席した。そこで強く疑問に感じたのは、「想定外の事態」や「未曽有の天災」という決まり文句を盾に、決して非を認めようとしない専門家たちの無反省ぶりだ。これまで不都合な警告や批判を封じ込め、「安全」を自明のものとして押し付けてきた業界の独善的体質が今回の事故の背景にあると思える
 ◇言葉は丁寧だが決して非認めず

 「大変なご心配をおかけして申し訳ありません」。東電の記者会見は必ずと言っていいほど謝罪の言葉が出る。だが、「多重防護」を誇ってきたはずの原発の安全性自体に疑問が及ぶと、会見する幹部の態度は途端に硬くなる。言葉は丁寧だが、非は決して認めず、自分たちの言い分だけを強調する。都合の悪い質問には、記者をにらみつけながら木で鼻をくくったような対応をする幹部もいる。

 こうした会見の模様はテレビやインターネット動画でそのまま報道され、政府の対応への不信とも相まって、国民は「本当に大丈夫なのか」「うそをついているのではないか」と疑念を募らせている。

 私は02年から3年間、若狭湾に原発15基が林立する福井県敦賀市に勤務した。「原発銀座」と称される地域で、取材の最重要テーマが原発だった。

 取材で接した原子力の技術者・研究者たちの印象は決して芳しいものではない。都合の悪い問いにまともに答えず、批判的な意見に耳を貸さない尊大ぶりが印象に残った。

 高速増殖原型炉「もんじゅ」(敦賀市)の設置許可を無効とした名古屋高裁金沢支部判決(03年1月)の際には、電力会社や研究者が業界を挙げて判決を攻撃した。判決に関する討論会で、推進派の大学教授が専門用語を駆使して野党の国会議員をやり込めた後、会場の片隅で「素人のくせに」と仲間内で笑い合っているのを見た。

 ある地方テレビ局が数年前、原子力に批判的な研究者をドキュメンタリー番組で取り上げたところ、地元電力会社が「原子力を理解していない」と猛烈に抗議した。番組はこの電力会社を直接批判する内容ではなかったが、テレビ局は広告主の抗議を無視できず、記者による定期的な原発見学を約束した。

 この件について取材した私に、電力会社の役員は「(原発が)いかに安全か理解していない。『反省しろ』ということだ」と言い放った。その傲慢な態度は、今回の事故を巡る会見で見た東電幹部と重なり合う。
 ◇官民にまたがる狭い人脈社会 

 なぜ、こんな体質が醸成されるのだろうか。

 原子力の技術者だった飯田哲也・環境エネルギー政策研究所長は、業界の実態を「原子力村(ムラ)」と名付けた。大学や大学院で原子力を学んだ学生は、電力会社やメーカーに就職したり、国や立地自治体の技官になる。就職先は担当教官の意向で決まることが多い人脈社会で、彼らは官民に分かれても「ムラ」の一員として育っていく。

 原発関係の事故はメディアで大きく報じられる。市民団体などの批判にさらされることも多い。“被害者意識”から、彼らは批判を「素人の意見」だと一方的に決めつけ、独善的な専門家意識を強めていくのだろう。

 原発の安全規制は、保安院と原子力安全委員会による「ダブルチェック」体制とされる。しかし現実には十分機能していない。チェックする方も、される方も、同じ「ムラ」の構成員なので、業界全体の利益を守ろうという意識が働く。保安院に至っては、原発を推進する経産省に属するという構造的問題を抱えている。

 組織の名称にしても、米国は「原子力規制委員会(NRC)」なのに、日本の機関には「規制」ではなく「安全」が使われている。「原子力は安全」という宣伝を優先するあまり、規制や監視という視点が欠落していたとしか思えない。

 今回の事故を受け、保安院を経産省から分離する組織改革がようやく検討される見通しとなった。必要なことだとは思うが、組織いじりだけでは専門家たちの体質を変えていくことはできない。

 これまで私たちは原子力の問題を「専門家の世界だから」と、直視することを避け、「ムラ」に委ねすぎてきた。だが今回の事故で、放射能への不安から電力不足問題に至るまで、原子力が一人一人の生活に密接にかかわることが明白になった。もう無関心は許されない。(大阪社会部)


国策だからということでふんだんな資金を使って地元民の顔を札束でたたくようなことをして原発を設置し、一方では営利企業としてコストカットを行っていたということなのでしょうか。
原発のような危険なものを民間企業が扱うこと自体がそもそも問題だったのではないかと思わざるを得ません。
いやいや危険物なら一般企業も扱っているではないかとの批判もありそうですが、いざことがあれば被害が尋常ではないことを想起すべきです。

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kodebuya

Author:kodebuya
関西出身のkodebuyaです。
心と体を鍛えてかっこいいオヤジになりたいです。
ラーメンと犬が好きです。


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