FC2ブログ
≪ 2019 11   1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 - - - -  2020 01 ≫
*admin*entry*file*plugin| 文字サイズ  

明日から始まるであろう、退職勧奨の交渉にむけて、宣伝じゃないけれどもこれを買ってきました。
OLYMPUS ICレコーダー VN-7200 ホワイト 2GB VN-7200OLYMPUS ICレコーダー VN-7200 ホワイト 2GB VN-7200
(2011/06/24)
オリンパス

商品詳細を見る

まぁ会社は一般的に世間体を気にするので、これが活躍することはないと思いますが、交渉の一部始終を記録するためです。

今のところ年齢も生活もあるので、会社の求めに応じて退職する気はありません。
やれることは全部やって、生き残りを図る所存です。

一生のうちこんな経験って滅多に出来ないはずなので、無理でしょうけど楽しむ気持ちを持って。


スポンサーサイト



リストラの対象になってしまった。
会社としては年内中の退職を希望する。その代わりに退職金を積み増すとのこと。
新しい可能性を探せだとさ(この求人難を知って人事はいっているのだから罪が重い)。

いい年になって今更だが辛い。
ただ、会社の思う通りになるつもりはない。
どこまで出来るかどうかわからないけれども会社に残ることを最優先にするつもり
(もちろん転職活動は平行しておこなうけれど)。

とりあえずこの週末、マイクロレコーダーを買いに行こう。
妻には話をした。
流石に驚いていたが、支えてくれている。
本当に感謝しています。ありがとう。

しかし久々の更新がこれってorz

大王製紙の井川前会長が特別背任容疑で逮捕されました。
同容疑者は容疑をほぼ認めているようです。

借入総額は150億円=非連結会社からも数十億―2年前に融資開始・大王製紙会長 時事通信 11月23日(水)2時31分配信

大王製紙をめぐる特別背任事件で、前会長の井川意高容疑者(47)が、子会社からの約106億円の借り入れ以外に、非連結対象の関係会社からも数十億円の融資を受けていたことが22日、関係者への取材で分かった。融資は2年前に始められ、子会社と関係会社からの借入総額は150億円前後に上るとみられる。
 東京地検特捜部もこうした事実を把握しており、詳しい使途の解明を進めている。


このような事態に至った経緯は
大王製紙前会長 「刺激欲しさ」の代償大きく 孤独エリート、破滅 産経新聞 11月23日(水)7時55分配信

製紙業界大手の巨額融資問題に22日、司直のメスが入った。東京地検特捜部に会社法違反(特別背任)の疑いで逮捕された大王製紙前会長の井川意高(もとたか)容疑者(47)は、創業家3代目の「エリート御曹司」として常に日の当たる道を歩み、企業家としても手腕を発揮。その一方で、孤独を感じていたのか、夜の街やカジノでしか見せない別の顔も持ち合わせていた。

 ≪常識外れ≫

 東京・麻布の深夜の高級クラブ。極彩色のドレスを着込んだホステスのグラスに、なみなみとシャンパンが注がれた。グラス下にはコースター代わりに一万円札が10枚置かれていた。

 通称「意高コースター」。酒を飲み干せば、全額が懐に入るという余興だ。ホステスが目の色を変えて杯を空にする様子を、井川容疑者は笑みを絶やさず見つめていたという。

 常識外れの金銭感覚を示す象徴的なエピソードとして、周囲に知られている。本人も酒豪で、高級な洋酒を何本も空けていた。

 幅広い交友関係も井川容疑者の自慢だった。豪遊を通じて政治家や芸能人、高級官僚にも人脈を持った。

 有名歌舞伎俳優が殴打された事件では、自らが知った“内幕”を、製紙業界の懇親会の場で上機嫌に語った。「仕事の話はそっちのけ。事件の話を興奮して話していた」。取引先関係者はそう振り返る。

 別の関係者は「社内で豪遊三昧をいさめる人はいなかった。冷笑まじりに『裸の大王』とささやかれていた」と話した。

 ≪プライド≫

 井川容疑者は大王製紙創業者である故伊勢吉氏の直系の孫で、3代目に当たる。

 愛媛県を拠点とする大王製紙は、井川容疑者の父親で元社長の高雄氏のもとで急成長した。「エリエール」ブランドを軸に昭和61年、ティッシュペーパーのシェアで国内トップに躍進。期待の嫡男である井川容疑者に高雄氏は、将来の社長にすべく帝王学をたたき込んだ。「愛媛から東京までジェット機で塾通いをさせ、東大卒の社員を家庭教師につけていた」(同社関係者)

 井川容疑者は名門・筑波大付属駒場高校から東大法学部へ進学。62年に大王製紙に入社し、4年で常務に昇格するなどエリート街道を突き進んだ。

 企業人として名を知らしめたのが、平成18年8月。業界最大手の王子製紙が業界5位の北越製紙に敵対的TOB(株式公開買い付け)を仕掛けた際、当時副社長の井川容疑者は徹底抗戦の論陣を張った。「市場価格を決定できる支配力を持つようになり、消費者の不利益になる」として公正取引委員会まで巻き込み、TOB破談の一翼を担ったのだ。

 「俺は東大法学部を出ている。ほかの企業の創業家一族とは違うんだ」。近代的経営感覚の自負とプライドを、そんな言葉で漏らしていたという。コンプライアンス(法令順守)やコーポレートガバナンス(企業統治)を体現するビジネスエリート。業界内外ではそう見る人もいた。

 ≪家訓≫

 だが、ギャンブルを知ってから、道をそれ始めた。借入金100億円超の大半の使途とみられるのが海外でのカジノだ。その水先案内人になったのは、都心の繁華街に根を下ろす“闇の紳士”たち。特に六本木でナイトクラブを経営していた元俳優の男性は指南役だったとされる。

 関係者によると、井川容疑者はマカオで1枚1000ドル(現在約7万7千円)のチップを惜しげもなく積み、バカラなどに没頭した。一度の渡航で5億円を超える現金を注ぎ込んだこともあった。

 知人の一人は、カジノ通いの目的を「とにかく刺激を欲していた」と述懐する。「本当の友達らしい人も少なかった。名門の家に生まれ育ったゆえ、孤高かつ孤独だったのかもしれない」

 今回の問題を調査した大王製紙の特別調査委員会の報告書では、井川家に対して「絶対的に服従するという企業風土があった」と指摘。高雄氏が顧問職を解任されるなど、井川家は経営の中枢から排除された。

 井川家には初代の故伊勢吉氏が残した「井川家の心」という家訓がある。

 〈井川を存在させるために、会社があるのではない〉

 大王製紙関係者はこう皮肉った。「井川が大きくした会社で、その信用を失墜させたのも井川だった。会社を自分の財布だと思っていた意高さんにとって、家訓は無意味だったようだ…」

であるとのことです。
「世襲支配」「独裁」の行き着いた末のことといえるのでしょう。
このことで私が想起したのは、中内功が作り上げ、一代で消してしまった「ダイエー」のことです。
佐野眞一による彼の評伝
完本 カリスマ―中内功とダイエーの「戦後」〈下〉 (ちくま文庫)完本 カリスマ―中内功とダイエーの「戦後」〈下〉 (ちくま文庫)
(2009/10/07)
佐野 眞一

商品詳細を見る
によるとダイエーの急激な成長は、中内の「衆議独裁」にあったといいます。
しかし、そのダイエーが最後に中内家の手から文字通り離れてしまったのは、中内の世襲への執着にあり、また、最後まで中内が経営権を手放そうとしなかった。引き際を間違えてしまったことにあったのではないかといいます。

同氏は晩年の中内について、同書で

中内は産業再生機構入りしてからのダイエーについても、ほとんど発言しなかったという。
「新生ダイエーの林文子CEOがテレビのニュースなどに登場すると『現場で社員と交流することはええことや』『これからの時代はマイカンパニーじゃなく、ユアカンパニーじゃなきゃいけないんやろな』なんて評価していました」
(筑摩文庫「完本カリスマ(下)」308頁)

と話をしていたという証言を紹介しています。
中内の失敗は会社という存在を、自分と自分の一族のものと勘違いしたことにありました。それは、消費者・生活者に一番近い業種であるはずの流通業においては許されることではなかったということなのでしょう。

井川容疑者も、世襲支配の中、いつの間にか裸の王様になってしまっていたのではないか?その孤独に耐えられなくなりこのようなことになってしまったのではないか?と考えてしまいます。
会社は社会的な存在でもあります。100歩譲って成長企業ならともかく、大王製紙のような安定企業になっていけば「独裁」はふさわしくないのでしょう。

政治だって同じ。日本のような成長企業に「独裁」とか政治家のお気持ちを「忖度」しなければならないような体制は決してふさわしくありません。

時間がないのでさっくりと。
実は本年1月に入籍していまして、本日挙式します。

ん?なんだか遅くない?と思うのですが、もともと7月に挙式予定だったのですが、震災の影響で
もしかしたら計画停電があるかもしれないということと、
それ以上に大きかったのは)嫁の万一大きな余震があったら責任が取れないという言葉があり、中止する!!と騒いでいたのをなだめすかして(苦笑)今日に延期したのでした。
残念ながら今日は雨ですが...

決まってからの嫁のパワーは凄かった。
嫁の兄のつてを頼ってカメラマンを連れて来たり、友人にブーケを作ってもらったりとまさに八面六臂の大活躍。
一応当事者の一人である私はあんぐり口をあけるばかりでした。
嫁のパワーに惚れ直した

一昨日にぼちぼち作っていた、自作のオープニングビデオやエンディングビデオを入れていたpcが突然クラッシュしてしまうなど、トラブル続きで、これからもうひと頑張りして作り上げてしまう予定です。

まだまだ気が抜けません(って当然か)。

まぁ、式・披露宴は楽しんできます!!

個人ブログなんですからたまにはいいよね、こんな話も(笑)


少し古くなりましたが、1月23日喜味こいしさんがお亡くなりになりました。
しゃべくり芸最高峰”喜味こいしさん逝く(デイリースポーツ)

“いとこい”の愛称で親しまれた兄弟漫才コンビ「夢路いとし・喜味こいし」の喜味こいし(本名・篠原勲=しのはら・いさお)さんが23日午後1時 38分、肺がんのため大阪市内の病院で死去した。83歳だった。しゃべくり漫才の最高峰として活躍し、“漫才の教科書”とも呼ばれる存在だった。2003 年に実兄の夢路いとしさん(享年78)が亡くなってからは一人で活動。古典落語のように語り継がれる名作漫才を数多く残し、昭和の名漫才師が旅立った。
   ◇  ◇
 昨年1月、体調不良のため病院で診察を受け、肺がんが発覚した。その場で本人にも病名と病状は知らされたが、こいしさんは手術 せずに入院して抗がん剤治療を受けることを選択。しかし、今年に入ってから体調が思わしくなくなり、21日に容体が急変。23日に妻や娘らが見守る中、眠るように静かに息を引き取った。
 最後まで仕事に意欲をみせていた。肺がん発覚後も入退院を繰り返しながら仕事現場へと足を運んだ。最後の 仕事となったのは昨年12月2日に大阪・NHKホールで収録された番組「満員御礼!寄席芸ワールド」。曲芸、マジック、落語家の余芸など、今では語る者が 少なくなった寄席芸を、こいしさんが豊富な知識で解説。数年前から担当していた番組は、この日がくしくも最終回で、マネジャーによると「収録日は体調も悪 くなく、スムーズに収録を行っていた」という。
 こいしさんは埼玉県生まれ。旅一座の家庭に育ち、幼少時から2歳上のいとしさんと舞台に 立った。37年に荒川芳丸に入門。荒川芳博・芳坊の名で子供漫才を始め、48年に「夢路いとし・喜味こいし」に改名した。
 45年には新兵 教育を受けていた広島で被爆。77年には膀胱(ぼうこう)がんを患い、人工膀胱で生活するなど波瀾(はらん)万丈の人生だったが、ひょうひょうとボケるいとしさんに翻弄(ほんろう)されながらも、こいしさんが的確なツッコミを入れる芸風で関西演芸界の重鎮となっていった。
 93年には兄弟で 紫綬褒章。2003年9月にいとしさんが死去して以降は、上方演芸会の“ご意見番”としての講演や、映画「ホノカアボーイ」(09年公開)に出演するなど 存在感をみせていた。


関西では、今もやっているのかどうかはわかりませんが、祝日には「ホリデースペシャル」と銘打ったりして上方漫才の特番をやっていました。関西の子ども達はこういう番組を見てすくすく育っていくわけです(笑)
その番組では、いとしこいしさんはオオトリだったり、トリの一つ前を必ずと言っていいほど務めていたような記憶があります。

お二人の漫才はMANZAIブームのころはゆっくりとした、よく言えばベテランの、悪く言えば刺激のないものだったと私は思っていたのですが、見ているうちに次第に引き込まれていたことを覚えています。当時は、吉本興業がフジテレビとタッグを組んでお笑い帝国として東京での地位を確固たるものにしていましたが、そんな東京に進出するB&Bやザ・ぼんちのような若手と違いどっしりと大阪で漫才をしていました。

飄々としたいとしさんのボケとこいしさんのだみ声のツッコミがなんともいえない味を出していました。今のネタ番組のように短い時間ではこの漫才の良さはわからないと思います。今の番組は一発芸の連発を見せられているように思えるのは私が年を取ってしまったからでしょうか。

こいしさんは、上記にもあるように戦争中は少年兵として入隊し広島で原爆に遭われたとのことです。
その当時の経緯を兄の夢路いとしさんは
いとしこいし 漫才の世界いとしこいし 漫才の世界
(2004/09/16)
不明

商品詳細を見る
「私のマンザイ放浪記」という手記で

原爆の噂は大阪にも聞こえていましたし、両親はてっきり弟は、死んだものと思いこんで、位牌まで作って拝んでいました。でも私は、弟が何故か生きていると確信しておりました。
案の定、終戦から十日目に弟は帰ってきました。軍の病院から原隊に帰らず、直接帰ってきたようです。原隊に帰った兵隊さんはたくさんの物資を家に持ち帰ったというのに、弟は軍服も着ずに、白衣一枚で頭に三角巾を巻き、藁草履を履いた姿はまるで幽霊のようでした。(上掲書86頁)

と回想されています。
現役時代はそのような話は殆ど公の場でされることはなかったのですが、いとしさんが亡くなった以降は、講演会で涙ながらに当時の話をされることもあったといいます。
まだこいしさんには生きていただいて、戦争の悲惨さや漫才の楽しさを語っていただきたかったと思います。

昭和がまた遠ざかっていったと思い知らされました。

ご冥福をお祈りいたします。楽しい漫才を本当にありがとうございました。





↓「ブログランキング」参加中!!。クリックお願いします。


Powered By 読書カレンダー

kodebuya

Author:kodebuya
関西出身のkodebuyaです。
心と体を鍛えてかっこいいオヤジになりたいです。
ラーメンと犬が好きです。


-天気予報コム- -FC2-


QRコード